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第3回 子どもは天使だから---

墓石に子ども!?

子どもと一緒に旅していると、素敵なことがいっぱい起こる。

先日、北部の街アバディーンへ2泊3日の旅をした時もそうだった。
街一番の目抜き通りを娘と2人でぶらついていると、子どもたちの弾けるような笑い声がする。2歳になる娘が『どこから聞こえてくるのかなぁ』とキョロキョロしながら歩いていくと、それはなんと、大通りに面した教会の墓地から響いてくるのだった。

教会の墓地
教会の墓地がまるで公園のような役割を果たしているのでビックリ!

教会の裏庭にあたる墓地には、年代ものらしき墓石がズラリと立ち並んでいる。その墓石群の間を這うようにしてつくられた小道で、3〜4歳くらいの子どもたちが数人で追い駆けっこをしていたのだ。 

墓石に子ども!? その組み合わせに一瞬ギクッとしたが、よく見てみれば、親とおぼしき大人たちが数組、少し離れたベンチに座って傍らのゆりかごを揺らしながら楽しそうにくつろいでいる。

ぐるりと墓地全体を見回してみると、いたるところに備えつけられたベンチでは、カップルが気持ちよさそうに日向ぼっこをしていたり、スーツ姿のビジネスマンがサンドイッチをかじっていたりする。

そう、それはまさに『公園』の風景なのだ。もしも苔むした墓石群が彼らの背後にそそり立っていなければ、どこにでもあるありふれた公園の昼下がり。私はポーンと異空間に飛ばされたような気分になった。

そして次の瞬間、私たちもその光景のなかに入っていた。娘が子どもたちに向かって走り出したのだ。

誰もがいつかは死ぬ

『こら待てっ!』
慌てて追いかけても、あっという間に娘は子どもたちの遊びに加わっていた。私がため息をつきながら近くのベンチに腰をおろすと、隣に座っていたおばさんが、『元気そうな子だねー』と買い物袋をガサゴソさせながら笑った。

『ええ、』と苦笑してから私は、思い切って自分の感じているこの場所に対する、なんとも言えない不思議な感覚を彼女に身振り手ぶりで伝えた。
すると、そのおばさんはこちらの予想もつかないことを言うではないか。

『お墓を見てると、ふだんは考えないことを考えない? みんな誰もがいつかは死ぬのよ。こんなふうに古ぼけた墓を見上げていると、昔や今やこの先のことをふと立ち止まって考えられるから、私はとってもいいと思うの。あなたはこのお墓をみて何を思う?』逆に質問をされて、私は答えに窮した。

確かに、おばさんの言うとおり、お墓を眺めていると、その下に埋葬された人が一体どのような人生を送ったのだろうといつのまにか想いを廻らせてしまう。私自身が子育ての真っ最中だからかもしれないけれど、いかに有名だったかという現世的な成功より、その人物がいったいどんな幼少期を送ったのだろうかといった、よりプライベートな個人史のほうに想像が膨らむ。

この墓石の下に眠っている人は、大人になってどこで誰とどんなふうに廻り逢い、どんな気持ちで親になったのだろう。。。子どもは何人いたのだろう。。。

自分は、人生のどのあたりにいるのだろう?

墓石の間に見え隠れする娘の影を目で追いながら、では、今の自分はどのあたりに位置しているのだろうかという問いが突然、閃光のように頭をかすめる。

限られた『人生』という時間のなかで、私はきちんと『今』をキャッチして生きているだろうか。過去に囚われたり、未来が怖くて進めないでいるんじゃないか。。。

急に彼女がスーパーの袋をつかんで立ち上がった。足元の鳩がびっくりして飛びのいた。

『大変!もうバスが来るから行かないと。お話しできてよかったわ、じゃ、さようなら』
人の気持ちを根底から揺さぶる問いを残して、彼女は足早に墓地を去っていった。

娘は墓石から顔を覗かせて、クククッと笑い声を立てている。なにがそんなに嬉しいんだろう。小さな天使は、母が『お墓公園』に迷い込み、予期せぬ時間旅行を体験することをあらかじめ知っていたのだろうか。

子どもを介して生まれる一期一会

あらためて、日本を離れてから今日までの数カ月間を振り返ると、子どもを介して人々と交わす一期一会のやり取りから、ちょっとしたこと、でも、今の自分にとってはとても大切なことに気づかされることの連続だ。

ベビーマッサージ
こちらでも、赤ちゃんにいいベビーマッサージはとってもポピュラー

エジンバラでの日常生活でも、電車やバスに乗り込んだり、川沿いや土手を散策していると、話しかけられることがある。

例えば、電車の中でこちらがハラハラするほど娘が騒いでいるのに
『Oh!ゴージャスな娘さんだけど、今いくつになるの?』
と大学生の娘さんに尋ねられ、日本での学生時代の思い出話をすることになったこともある。

芝生の上を娘が子犬のように走り回っていれば、鳩の餌づけをしていたおじいさんに
『今日は寒いけど君たちは暖かそうだから大丈夫だね』
と目を細められ、そのまま一緒に、しばらくの間、言葉の要らない静かな時間を共有したこともある。

存在を認知される安心感

子どもという存在を介して生まれる、世代も性別も言葉すらも超えたやりとりは、子育てする者をふんわり支えるものだなあと思う。私が、引越しやその後の片づけで髪を振り乱しているとはいえ、日本語の通じない外地にあって、育児ストレスをそれほど感ぜずに済んでいるのも、ここでの日常生活に散りばめられたさりげない他者との交流のおかげかもしれない。

意味があるのか、ないのか分からないような言葉でも、ほんの一言かけられるだけで、ただそれだけで、‘あなたたち親子がそこにいるのを私は知っていますよ’と、存在を認知された安心感で満たされる。迷惑なのでは。。。と周囲の大人たちの顔色を伺っていた日本での子育てとはずいぶん違う。

‘子どもは天使---’少しおおげさかもしれないけれど、3月に日本を離れて以来、そんなことを折に触れて、何とはなしに肌で感じている今日このごろ、スコットランドの空はどこまでも高い。

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著者プロフィール
木村章鼓(きむら あきこ)
英国在住のドゥーラ&バースファシリテーター
エジンバラ大学大学院 医療人類学(Medical Anthropology) 修士
約65カ国を訪問し、世界のお産に興味を持つ2児の母
「ペリネイタルケア」(メディカ出版)にて「ドゥーラからの国際便」を連載中
HP http://nomadoula.wordpress.com/