第34回 赤ちゃんが生まれた日にみた、不思議な夢
今回も精霊つながりの話になってしまうが、最近、とても面白い本を読んだ。「精霊たちのフロンティア」(石井美保著 世界思想社)は、アフリカ、ガーナの地を行き交うという精霊たちと、その精霊たちの導くという超常現象を囲む開拓移民社会の人間模様を、とても丁寧なフィールドワークによって鮮やかに描き出している。
60カ国以上を旅してきた私もまだ行ったことのない国、ガーナ。その空の下に生きる遠い人々がこの本を通して急に身近に感じられるようになった。特に、赤ちゃんを守って欲しいとか、授けて欲しいと土着の精霊にすがる母たちの想いが容易に想像でき、まったく別の時空間に住む私の胸にも強烈に立ち上がってきた。
資本主義経済のふるいにかけられ移ろいゆく伝統文化と、日々の生活の狭間に佇むガーナの女性たちに限らず、いつの時代にも、どこにあっても、ほとんど同じことを人々は願い続け、祈ってきたのだろう。
無事に赤ちゃんが生まれ、健やかに育つ。このことがどれほど深く強く私たちの人生という船を前へと押し、また時に揺さぶることか、私自身、母親になってみるまで分からなかった。
よく、妊娠および子産み子育て中は、『野生動物の母親のように、女性は‘神経がとがる’』などといった表現をされることもあるが、私には‘意識がより研ぎ澄まされる’と言い換えると、しっくりくる。
それは、自分のなかにミクロとマクロの視点が同時に存在するようになるとでも言い換えたらよいのか。
例えば、漕ぎ手として目の前の波と格闘しつつ、同時に、木の葉のようにくるくると嵐にもまれる自分を乗せた船が、漠々と広がる大海原に漂う様子が見えていたり、さらにその上に明滅する星の光をも感じていたりする、という具合だ。 私の場合、目の前の子どもがあって初めて、社会の動き、世界の動向などがようやく少しずつ見えてきた。
妊娠すると直感を頼りにすることも増えて、ただのおまじないや迷信と笑われてしまうようなことでも、ごく自然に受け入れている自分に驚いたりもした。
昨年、第二子が生まれた日に不思議な夢をみた。予定日ではなかったが、そろそろという頃で、‘ああ今日生まれるんだ’と夢から覚めて確信した。
その夢とは、水のひとしずくとして自分が流れていく夢だった。もしかして、昔ポール・ギャリコの‘雪のひとひら’を読んだことがあるから、そのイメージが出てきたのだろうか。
あの話では、ひとひらちゃんが天から舞い降り、人間の子どもによって雪だるまにされてしまったり、春になって溶けると谷川を下って大河となり、街では火事を消したりしながら、最後には太陽に照りつけられて少しずつ軽くなり、同時に、それまでの道のりを回想しながら起きたことのすべてを受け入れつつ大気となって還ってゆくというストーリーだった。
私の夢では、なんのストーリーもなく、いきなり水として在る自分からの記憶しかない。あるいは集合無意識(※)なのだろうか、‘これが自分’、とは感じていなかった。
夢のなかで私は大きな流れの一滴で、夜の河は、私たちで満たされていた。羊水のように生ぬるい流れにやさしく押し流されて渓流を下る感覚が異様にリアルだった。月に岩が照らされ迫ってきても自分がそれに当たって砕けることはなく、するりと大きな岩でも岸辺でも撫でていくだけ。それを何百回と繰り返しながらかなり長いこと流体になりきって旅をしていた。
このままずっと流れ続けていたいほどの時間を超えた恍惚感に浸っていると、少し先の右手に現れた大きな波のうねりの中に、生まれてくる赤ちゃんの姿が見えた気がした。
‘赤ちゃん!私の赤ちゃん!’大きな声で呼びかけようとした瞬間、目覚めてしまった。惜しかった。
そのくらい心地のよい夢で、目覚めてからも全身に揺れている感覚があった。赤ちゃんと私が同じ河の一部として流れていたことをあらためて思い出し、‘ああ今日だ’、と身の引き締まる想いがした。
破水があって、昼ごろからソフトな収縮が始まり、それは夕方にはしっかりした陣痛に変わっていった。午後7時ごろに助産師サンドラが到着し、1時間もしないうちに第二子はつるんと水中に現れ、我が家のバスタブに元気な産声を響かせた。
今思い出してもあの夢はとても啓示的だった。見たばかりのリアルなイメージとその体感に導かれるように、お産に身を預けることができた気がする。
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木村章鼓(きむら あきこ)
英国在住のドゥーラ&バースファシリテーター
エジンバラ大学大学院 医療人類学(Medical Anthropology) 修士
約65カ国を訪問し、世界のお産に興味を持つ2児の母
「ペリネイタルケア」(メディカ出版)にて「ドゥーラからの国際便」を連載中
HP http://nomadoula.wordpress.com/